成人発症の遺伝性神経筋疾患に対する発症前遺伝子診断の社会的影響

文献情報

文献番号
199900329A
報告書区分
総括
研究課題名
成人発症の遺伝性神経筋疾患に対する発症前遺伝子診断の社会的影響
課題番号
-
研究年度
平成11(1999)年度
研究代表者(所属機関)
池田 修一(信州大学医学部)
研究分担者(所属機関)
  • 吉田邦広(信州大学医学部)
  • 久保田健夫(信州大学医学部)
  • 玉井真理子(信州大学医療技術短期大学部)
研究区分
厚生科学研究費補助金 総合的プロジェクト研究分野 ヒトゲノム・遺伝子治療研究事業
研究開始年度
平成10(1998)年度
研究終了予定年度
平成12(2000)年度
研究費
3,420,000円
研究者交替、所属機関変更
-

研究報告書(概要版)

研究目的
本年度は以下に示す課題と目的で研究を行った。近年遺伝子診断に対する社会的関心が非常に高まってきており、特に家系内に重篤な遺伝病患者を有する人達にとっては、自分や子供の将来展望を考える上で遺伝相談、発症前遺伝子診断に期待するところが大である。また医療側も遺伝子診断が日常診療で多用されるようになった今日の状況では、正当な理由をもって自らの意思で発症前遺伝子診断を希望する人に対しては、これを一概に拒むことは出来ないと考えられる。しかし現時点ではこうした遺伝病に対する発症前遺伝子診断の適応、本検査の社会的影響とそれに対応した遺伝相談の実施要項は専門医の間でも十分な検討がなされていない。
本研究では申請者らが既に数年前から実施している"家族性アミロイドポリニューロパチー"を中心とする、遺伝性神経筋疾患の家系内要員に対する発症前遺伝子診断ならびに遺伝相談をさらに体系的に実施して、その社会的影響を長期的観察から明らかにすることを目的とする。具体的にはi)発症前遺伝子診断を希望するようになった動機とその情報起原、ii)得られた遺伝情報を相談者個人が疾病の早期発見を含めて将来的にどのように利用しようとするのか、ii)病的遺伝子を有することが判明したことがその後相談者の家庭生活や結婚、職業選択にどのような影響を与えるかなどの点を重点的に調査する。
平成10年度は家族性アミロイドポリニューロパチー、筋ジストロフィー、先天性奇形症候群の発症前遺伝子診断、子宮内胎児診断について検討した。平成11年度は疾患対象を拡大して遺伝性脊髄小脳変性症などの疾患も対象とし、さらにこれらの疾患に対する遺伝相談の体制を確立することを目指した。
研究方法
当院遺伝子診療部を受診したクライアントを対象とした。遺伝相談を含めた聞き取り調査は医師1名、臨床心理士1名の2名で行い、場合によっては専属看護婦も同席した。クライアントに対する主な質問事項は、1)相談対象の疾患名と家系内でどのメンバーがこの対象疾患に罹患しているのか、2)その病気が遺伝性疾患であること、発症前遺伝子診断が可能であることをどのようにして知ったのか、3)遺伝相談・発症前遺伝子診断を希望するようになった動機は、4)家系内の他のメンバーに相談したか、5)発症前遺伝子診断の結果を将来どうのように使用しようと考えているか、などである。
遺伝子診断の方法は家族性アミロイドポリニューロパチーではトランスサイレチン遺伝子の部分塩基配列をPCR法で増幅し、これを制限酵素で処理して解析するか、またはmass spectrometryを用いて血清中に存在する変異トランスサイレチンを検出する方法で行った。筋ジストロフィー、遺伝性脊髄小脳変性症では関心領域のDNAをPCR法で増幅して、遺伝子の欠損、triplet repeatの増大の有無を検索した。結果は被検者である本人のみに伝えることを原則とした。遺伝子診断陽性者は6カ月ごとの定期的検診を行い、長期的には遺伝子診断陽性の結果が被検者のその後の家庭生活(両親、配偶者、子供との関係)ならびに社会活動(職業の選択、結婚・妊娠など)にどのような影響を与えるかを検討し、さらにこの遺伝情報が他の家系内メンバーにおよぼす影響についても、遺伝情報の共有の観点から調査した。
結果と考察
I) FAPに対する遺伝相談と発症前遺伝子診断
FAPの発症前遺伝子診断を希望して来院した人は男性1名、女性5名の計6名、年齢29~59歳であった。本遺伝子診断を希望するようになった契機はテレビ、新聞などのマスコミ報道で自分の親の病気の詳細を知り、自分の将来に対する不安を覚えたことであった。2名の女性が陽性で、両名はその後の精査で症状は軽微であるが、生検組織でアミロイド沈着が証明され、FAP発病者であることが判明した。33歳女性は直ちに父親をドナーして生体肝移植を受け、他の1名は脳死体からの肝移植を希望して待機リストに登録した。この結果から発症前遺伝子診断はFAPの早期診断・早期治療に繋がる可能性が示された。さらに2年前に本遺伝子診断を受けて陽性であることを知っている23歳女性が結婚・妊娠して、胎児の遺伝相談目的に再度来院した。遺伝カウンセリングの結果、子宮内胎児診断は希望せず妊娠を継続することになった。
II) 遺伝性神経筋疾患における発症前遺伝子診断
根治療法が確立されていない成人発症の遺伝性神経筋疾患に対する発症前遺伝子診断についてはその是非が論議されているが、未だ一定の指針は専門家の間でも出ていない。信州大学医学部附属病院遺伝子診療部では1996年5月から1999年12月までの間にBecker型筋ジストロフィー1名、筋緊張性ジストロフィー3名、遺伝性脊髄小脳変性症3名の計6名について発症前遺伝子診断を実施した。いずれのクライアントも無症状であり、また神経学的診察所見にも異常を認めなかった。対象者に対しては発症前遺伝子診断を行う前に遺伝カウンセリングと病気についての詳細なインフォームドコンセントを複数回行った。結果は未婚の23歳男性が遺伝性歯状核赤核淡蒼球ルイ体萎縮症(DRPLA)遺伝子のキャリアーであることが判明した。この家系においては母親を含む母方家系に数名の発病者があり、このクライアントの兄についての発症前遺伝子診断は陰性であった。これら過去の経験を基に「成人発症の遺伝性神経筋疾患に対する遺伝カウンセリングおよび発症前遺伝子診断の指針」を作成した。すなわち対象者には遺伝子診断前に2週間以上の間隔で最低3回の遺伝カウンセリングを実施する。各カウンセリングは2名以上の専門医と臨床心理士で行い、その際i) 発症前遺伝子診断は自らの意思であり、誰からも強制されたものでない、ii)対象となる疾患の明らかな家族歴があり、また家系内発症者の遺伝子異常が判明している、iii)遺伝形式、疾病内容を十分理解できる知的能力がある、などの10項目をチェックする。また同時に発症前遺伝子診断に関する知織の入手経路ならびに本診断を希望する理由についても詳細に聴取するなどである。
告知後1週間、1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月の定期的な面談を行っているが、クライアントの日常生活状況に大きな変化はない。
III) 信州大学医学部附属病院遺伝子診療部受診者における遺伝・遺伝子診断の情報源と理解度に関する研究
遺伝性疾患は家系内に発症を認めても、わが国ではその情報が家系内ですら上の世代から下の世代に正確に伝えられていない。一方、最近は多くの病気に関する遺伝情報がマスコミ、インターネットなどを通じて公開されているが、その理解度は個人々により大きく異なっており、必ずしも正しく理解されていない場合もある。本年度は本院の遺伝子診療部を子供の遺伝相談目的で受診したクライアントを対象として遺伝・遺伝子に関する情報源やその理解度の調査を行った。2例は奇形に関する相談であり、情報源は医療機関であった。他の1例はダウン症候群であり、これは一般の啓蒙書を通じて、もう1例は血友病であり、相談者が看護婦ということもあり、職業上の知識として知り得た。この中でクライアントは、ダウン症候群の出生前診断が可能であることは正しく理解されていたが、本症候群は遺伝性疾患であるとの誤解をしていた。第一子がダウン症候群であっても第二子をもうけた際に必ずしも子宮内胎児診断の必要性がないことを説明して理解が得られた。また血友病についても理解していた状況は重症者の経過であり、本疾患には軽症者も少ないこと、仮に重症でも現在は治療が十分できることなどは知られていなかった。医療従事者においてもこうした理解不足という状況があることが明らかになった。
現在マスコミやインターネットを通じて膨大な遺伝・遺伝子に関する情報が社会に流されているが、その際内容が誇張されたりしていて正確でないため、一般市民は混乱を生じることがある。信州大学医学部附属病院遺伝子診療部はわが国唯一の遺伝医療を専門とする部署であり、遺伝情報を正しく扱い、また同時にこれを一般市民に有益な情報として還元する責務があると考えている。実際本診療部を受診する人の数は年々増加しており、遺伝相談の内容も広範囲になっている。
本年度はFAPの発症前遺伝子診断を通じてこうした診療が疾病の早期診断、早期治療に役立つことを実証することが出来た。また成人発症の遺伝性神経筋疾患についても、慎重なステップを踏んで発症前遺伝子診断を行う体制を確立した。こうした疾患の相談者については、特に遺伝子診断陽性者を中心に今後の長期的な遺伝相談を必要としている。本研究が最終的に目指すところは長期的な社会生活への影響であり、クライアントとの接触を密にして検討を続けていく必要があると考える。
結論
1.遺伝性疾患に対する発症前遺伝子診断の社会的要請は予想以上に高い。
2.病気の遺伝・遺伝子異常に関する情報は一般市民に必ずしも正しく伝わっていないし、また同時に受け取る側も正確に理解していない。
3.遺伝医療の専門家がこうした状況に対して積極的に介入していく必要がある。

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