疫学研究の行政的側面からの評価に関する研究

文献情報

文献番号
199900084A
報告書区分
総括
研究課題名
疫学研究の行政的側面からの評価に関する研究
課題番号
-
研究年度
平成11(1999)年度
研究代表者(所属機関)
中山 健夫(国立がんセンター研究所)
研究分担者(所属機関)
  • 水嶋春朔(横浜市立大学)
  • 本荘哲(防衛医科大学)
  • 玉腰暁子(名古屋大学大学院)
  • 吉池信男(国立健康栄養研究所)
  • 武林亨(慶應大学)
  • 小橋元(北海道大学医学部)
  • 西信雄(宝塚市立健康センター)
  • 阪本尚正(兵庫医科大学)
  • 大矢幸弘(国立小児病院)
  • 尾崎米厚(国立公衆衛生院)
研究区分
厚生科学研究費補助金 行政政策研究分野 厚生科学特別研究事業
研究開始年度
平成11(1999)年度
研究終了予定年度
-
研究費
2,000,000円
研究者交替、所属機関変更
-

研究報告書(概要版)

研究目的
特に公衆衛生行政の方向性を決めるのに大きな影響力を持つ政治家、他の行政担当官に疫学が適正に認知されているとは言えず、そのため公衆衛生上の重要な意思決定が、マス・メディアの提供する偏った情報や、それによって形成される、時に感情的とも言える世論に大きく影響されているのが実状と言える。また近年の個人情報・プライバシー保護に関する急峻な動きは、社会の疫学に対する漠然と不安感とも相まって、疫学研究の望ましい方向付けを越えて、人間の健康・疾病のリスク要因を明らかにしようとする疫学研究の存続を危ぶませる可能性も感じさせる。本研究は「疫学とはどのようなものか」、「これまで社会に対しどのような役割を果たしてきたか」、「今後どのようなところに疫学の力が発揮されるのか」という視点から、疫学研究と厚生行政の関わりを整理し、それをもとに疫学の意義を効果的に伝える手法を開発するものである。本研究により、「疫学の外部」の人々の疫学に対する理解を深めることができれば、社会に受け容れられる形で問題解決を志向する真に質の高い疫学研究が育つ基盤が整うであろうし、公衆衛生的な観点からの社会の危機管理体制の充実に資するものとなるであろう。
研究方法
本研究は疫学と公衆衛生行政の具体的な関わりについての事例収集とその評価、それに基づいた疫学の意義を効果的に「外部」に伝えるコミュニケーション・プログラムの開発からなる。研究班の活動は下記の4点を中心とした。1. 疫学、公衆衛生学、公衆衛生行政の理論的バックグランドの整理 2. 各領域の疫学研究の行政への貢献を整理) 3. 疫学的視点が不充分であったために生じた社会的損失のレビュー 4. 行政官への疫学に関する印象・疑問点のインタビュー 
2,3については班内でブレーンストーミングを行い事例をリストアップし、疫学の厚生行政への貢献と明かにされた問題点、社会の反応などのついて分析・評価を試みる。それらの成果に基づいて疫学の意義を「外部」に伝えるためのプレゼンテーション・ツールを開発する。プレゼンテーション・ツールは、非疫学者にも提示し、フィードバックを得て改良を行なう。
結果と考察
“Evidence-based Health Policy"の実現のためには“Public Health Policy Cycle"の5ステップ、すなわち 1.「集団の健康評価」(記述疫学)、 2.「介入効果の予測」(介入研究)、 3.「政策の選択」(効率などからの意思決定)、4.「政策の実施」(行政)、 5.「政策の評価」(記述疫学)において、疫学研究が政策の根拠の提供および評価を担うことが求められる。従来の疫学研究は、因果関係の解明、リスク・ファクターの関与の大きさ(相対危険の算出など)の評価に主眼が置かれてきた。Spasoffはこれらを「機序疫学 "Etiologic Epidemiology"」と名付け、政策選択の根拠づくりや政策評価を志向する「政策疫学 "Policy Epidemiology"」と区別する考え方を提唱した(1997)。 
わが国における疫学研究の行政への貢献事例としては昭和54年の「第4次悪性新生物実態調査」(がん登録を活用した記述疫学)の成果による「対がん10ヵ年総合戦略」の策定、S30年代より各地で行われた循環器疾患の疫学、全国レベルで継続されている「国民栄養調査」と10年毎に行われる「循環器疾患基礎調査」、国立がんセンターの「計画調査(大規模コホート研究)」の成果による「老人保健法」(S57)制定、「アクティブ80ヘルスプラン」(第2次国民健康づくり対策.S63)、「トータルヘルスプロモーション(THP)プラン」(労働安全衛生法第69条等に基づき労働大臣の指針として示された勤労者の健康管理指針.S63)への展開、以上の疫学調査に加え、“NIPPON DATA"(S55「第3次循環器疾患基礎調査」をベースラインとするコホート研究)、平成3年度厚生省糖尿病調査研究などの成果による「健康日本21」(H11)策定などがある。また難病対策の嚆矢となったS30年代のSMON(亜急性脊髄視神経神経障害)問題では疫学の成果によりキノホルムが原因薬剤として特定され、薬事2法(薬事法改正・医薬品副作用被害救済基金法制定)に繋がった。また労働に関連する突然死、いわゆる「過労死」については、その背景を明らかにするため、労災相談事例に基づく記述疫学的研究、そして壮年期の心筋梗塞を対象とした患者・対照研究が行なわれ、長時間労働に代表される過重な労働負荷が強く関連していることが示された。これらの疫学的な研究成果を受けて、H10年度労働基準行政運営方針は「健康で安心して働ける勤労者生活の実現に向けて」を決定、労働時間法制及び労働契約等法制を充実させると共に、週40時間労働制の完全定着を始めとした労働環境の改善が図られた。「労働者の安全と健康確保対策」が重点対策として「原点に立ち返った安全衛生活動の展開」「死亡災害を大幅に減少させるための施策の展開」「労働者の健康確保対策」が明記された。また一般健康診断においてHDLコレステロールと血糖測定の追加(安衛則第43条・44条)、Body Mass Index欄が設定(安衛則様式第5号関係)され、素地となる生活習慣病の早期発見・管理体制が改善された。
以上のレビューにより、行政的に制度化され、成果が社会的に還元された疫学研究が数多くあることが確認された。反対に疫学的視点が不十分だったために社会的損失が生じた事例に水俣病がある。S31年の公式発見後間もなく、熊本大学を中心とした疫学調査により水俣湾の魚介類摂食が原因として指摘され、工場廃水が注目されたにもかかわらず、業界支援を受けた有力研究者組織が「それまでの調査・研究では原因は未解明」と主張、具体的な規制行動は保留され、その間に新潟の第2水俣病の発生を見ることとなった。またがん検診の導入・推進にあたって各がんの頻度を明記した記述疫学的資料は活用されたが、分析疫学的な手法による有効性の評価が不十分だったため、1990年代に入って「がん検診無用論」が唱えられ、社会的な混乱の一因となった。海外ではハンブルグ(旧西ドイツ)での地域がん登録制度「個人情報保護に抵触する」という理由で1980年以後存続不能になり、その後発生したチェルノブイリ事故の健康影響を評価できなくなり社会問題化した。これらの事例のレビューにより疫学研究が遂行されなくなった場合、行政としては 1. 信頼できる数値(最も誤りが少ないと思われる数値)に基づいた政策の実施・評価ができない 2. 事前の予防的なリスクアセスメントが不十分で、将来的に大規模な問題が発生した場合の賠償責任の発生(公害裁判事例) 3. 薬剤、新興・再興感染症など未知の健康に対する障害要因の迅速な解明ができない などの問題が生じ、個人レベルでも 1. 病気の予防の手立てを知ることができない 2. 病気にかかった時に、今後どうなっていくのか見込みが立てられない 3. 未知の健康危険要因(ダイオキシン、電磁波、放射能などの環境要因)が実生活に及ぼす危険を知ることができない などの問題が生じることが予測される。人間集団を対象とする科学としての疫学が、政策的な志向を強めることの是非は欧米でも論議されており、米国では主要疫学専門誌の論文のうち、政策的提言を行なっているのは全体の約1/4とされている。医系技官との意見交換では、「根拠に基づいた保健行政」推進に必要なデータが質量とも不足していること、疫学が臨床医や一般社会から理解されていないこと、研究費の適切な分配が必要であること、疫学・公衆衛生の研究者と行政担当者に距離があること(研究内容が現場ニーズの乖離)、個人情報の取扱について一層の配慮が必要となることなどの課題が共有され、これまでは十分とはいえなかった政策的志向をもつ疫学研究の発展が望まれていることが明らかとなった。 
以上の成果をもとに疫学の意義を疫学外部の人々に伝えるためのプレゼンテーション・プログラムを作成した。
結論
本研究班の特記すべき意義は、行政的貢献という視点からの疫学の「アカウンタビリティ(説明責任)」を主張したこと、作業に当たって若手を中心とした疫学者と医系技官の連携が図られたこと、の2点である。
本班における諸課題の遂行により下記の状況が確認された。
1. 疫学はこれまで多くの行政的貢献を行なっており、今後も厚生行政において重要な役割を担っていくであろう。
2. 疫学者の研究志向は行政的ニードよりも生物学的な機序解明に主眼がおかれており、将来的には「政策疫学」領域の発展も期待される。
3. 現代は「公益(個人の権利・自由の忖度がある程度不可避)」の確保と、個人のプライバシー意識の葛藤が頻発する社会である。疫学が社会の健康を守るために、社会に受け容れられる形で存続するには、「アカウンタビリティ(説明責任)」への強い認識が不可欠である。
以上より21世紀における疫学の在り方について提言を行なう。
1. 個人情報保護をはじめとする関連法規と実施ガイドラインに準拠し
2. 社会との緊密な連携のもとに
3. 情報の適切な利活用を図り
4. 社会の信頼・期待に答える成果を
5. 疫学者としての責任を明示して、
6. 社会に見える形で還元していくこと

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