うつ病の発症機序と治癒機転の分子生物学的研究

文献情報

文献番号
199700713A
報告書区分
総括
研究課題名
うつ病の発症機序と治癒機転の分子生物学的研究
課題番号
-
研究年度
平成9(1997)年度
研究代表者(所属機関)
樋口 輝彦(昭和大学藤が丘病院精神神経科学教室)
研究分担者(所属機関)
  • 上島国利(昭和大学医学部精神医学教室)
  • 小口勝司(昭和大学医学部第一薬理学教室)
  • 木内祐二(昭和大学医学部第一薬理学教室)
  • 山脇成人(広島大学医学部精神神経学教室)
  • 森信繁(山形大学医学部精神神経学教室)
  • 小澤寛樹(札幌医科大学医学部神経精神医学教室)
研究区分
厚生科学研究費補助金 先端的厚生科学研究分野 脳科学研究事業
研究開始年度
平成9(1997)年度
研究終了予定年度
平成11(1999)年度
研究費
50,000,000円
研究者交替、所属機関変更
-

研究報告書(概要版)

研究目的
有病率が4%にものぼり社会生活上長期に亘り多大な影響を与えるうつ病の発症機序と治癒機転の研究は緊急かつ必要性の高い課題である。従来より動物を用いた抗うつ薬や電撃ショックの作用機転の検討に基づき、うつ病態と抗うつ作用の解明が試みられてきたが、現在でもその基盤となる神経化学的変化は明らかでなく、また国内では患者脳から得られた情報も少ない。抗うつ薬は連投で始めて効果が得られるため、その抗うつ作用には何らかの機能蛋白の発現を介した可塑的変化の関与が指摘されている。また、抗うつ薬は従来より知られるモノアミントランスポーターに加え、モノアミン受容体以降のG蛋白、アデニル酸シクラーゼ、細胞内カルシウム動態やプロテインキナーゼなどの細胞内情報伝達系に作用する可能性も指摘され、その作用機序解明にはこれらの蛋白やその発現調節系を対象とした分子レベルの研究が望まれる。一方、抗うつ薬の標的分子として上述のような既知蛋白質のみの変化を想定して研究を進めることの危険性も指摘され、抗うつ薬投与後の未知遺伝子の発現量の変化もスクリーニングできるDifferential Display法を用いた検討も望まれる。うつ病の発症機序とその治癒機転に関わる分子メカニズムを明らかにするためには上記のような総合的なアプローチが求められており、われわれは報告の少ない患者脳での検討も含め複数のin vitroおよびin vivo実験系を用いて検討を行った。
研究方法
(1)ラットにイミプラミンあるいはサートラリン を21日間腹腔内投与後、脳内各部位を摘出した。得られたcDNAを全90通りのプライマーの組み合わせでRNA fingerprinting法 (Differential Display法)に最適化した条件でPCRした。電気泳動後、薬物処置群で特異的に増加しているPCR産物のバンドを精製、塩基配列を決定した。さらに、Northern Blotting法、RT-PCR法で遺伝子発現量の増加の確認を行った。(2)(1)と同様の処置をしたラットの脳内各部分のプロテインキナーゼC (PKC)、cAMP依存性プロテインキナーゼ (PKA)、Ca2+/カルモジュリン依存性キナーゼII (CaMキナーゼII0 活性を検出した。(3)45分拘束ストレス負荷およびFK506を腹腔内投与したラットの脳内各部分のc-fos mRNA(Northern Blotting法)、リン酸化CREB量(Immunoblotting法)、フォルスコリン誘導体NKH477の1、7および14日腹腔内投与後の脳内各部位のBDNF、trk B mRNA発現量を検討した。(4)Ca2+、プロテインキナーゼ関連薬物存在下でPC12細胞への[3H]ノルアドレナリン (NA) 取り込み能を測定した。NAトランスポーター (NAT) mRNAの塩基配列を決定し、部分ペプチドのCaMキナーゼII によるリン酸化能を検討した。さらに、CaMキナーゼII強制発現細胞の[3H]NA取り込み能、NAT mRNA発現量、リン酸化CREB量も検討した。(5)C6細胞に熱ストレス処置し、あるいはリポ多糖またはリチウムを添加して培養し、セロトニンまたはトロンビン刺激性の細胞内Ca2+濃度上昇(fura-2蛍光強度)あるいはheat shock protein 70 (HSP70)の発現量(Immunoblotting法)を検討した。(6)単極性うつ病患者および対照患者死後脳の前頭葉皮質から調整した膜標本でCa2+/カルモジュリン存在下あるいは非存在下でのアデニル酸シクラーゼ (AC) 活性、I 型AC蛋白量(Immunoblotting法)、セロトニン刺激性ホスホリパーゼC活性を検討した。
結果と考察
(1)Differential Display法では、対照群と比較し、イミプラミン、サートラリン
連投ラットの前頭葉から得たRNAサンプルに共通して増加しているPCR産物は合計74確認された。すでに塩基配列を決定したPCR産物には既知遺伝子と80%以上の相同性を示すものが数種含まれていた。(2)イミプラミンおよびサートラリン連投ラットでは共通して、対照群に比較し前頭皮質の可溶性画分でPKA活性の有意な上昇が認められた。(3)拘束ストレス負荷ラットの前頭皮質ではリン酸化CREB量が増加した。またストレス負荷ラットの前頭皮質、海馬におけるc-fos mRNA発現はFK506前投与により亢進した。NKH477の1、7、14日間投与のいずれもラット前頭皮質、海馬のBDNF、trk B mRNA発現を亢進させた。(4)PC12細胞の[3H]NA取り込みはCa2+ 依存的に増加し、CaMキナーゼII阻害薬、ミオシン軽鎖キナーゼ阻害薬などで抑制された。NAT cDNA塩基配列より推定したC末端領域のペプチドが精製CaMキナーゼIIによりリン酸化された。CaMキナーゼII強制発現細胞ではNA取り込み、NAT mRNA発現量、リン酸化CREB量の著明な増加が認められた。(5)リポ多糖処置はC6細胞のセロトニン刺激性細胞内Ca2+ 濃度上昇を抑制し、この作用はGキナーゼ阻害薬で拮抗された。リチウムはトロンビン刺激性細胞内Ca2+ 濃度上昇を抑制した。熱ストレス負荷6、9時間後にHSP70発現量は増加し、1-6時間後のセロトニンおよびトロンビン刺激性細胞内Ca2+ 濃度上昇は抑制された。(6)うつ病患者の前頭葉皮質では健常患者に比較し、Ca2+/カルモジュリン非存在下のAC活性は有意に減少、Ca2+/カルモジュリン存在下の活性およびI 型AC蛋白量は有意に増加していた。一方、セロトニン刺激性ホスホリパーゼC活性はうつ病患者群で有意に増加していた。
今回、Differential Display法を用い抗うつ薬の治癒機転に関与する蛋白質を遺伝子レベルで検索した結果、抗うつ薬連投後にラット前頭皮質で未知遺伝子も含む複数の遺伝子発現が増加している可能性が強く示唆された。今後、これらの遺伝子産物に関して、その機能解析も含め、うつ病の病態や治癒機転との関連について検討を加える予定である。
一方、神経機能の長期的、可塑的な調節に深く関与することが報告されている既知の細胞内情報伝達系に関しては、ストレス負荷、抗うつ薬(あるいはリチウム)投与のいずれの場合もセカンドメッセンジャー系(Ca2+、cAMP産生系)の変化を介してプロテインキナーゼ類(PKA、PKC、CaMキナーゼIIなど)の活性変化が生じる可能性がin vitro、in vivoいずれの実験系からも示唆された。こうしたプロテインキナーゼの活性変化が、CREB等の転写因子のリン酸化レベルの変化を介し、モノアミントランスポーターなどの神経特異的な膜蛋白やBDNF等のサイトカインの発現量の変化を引き起こし、長期的な神経機能の変化をもたらすという仮説も想定される。
実際に、うつ病患者の死後脳でもcAMP産生系、IPs産生系という主要なセカンドメッセンジャー系の不均衡が生じている可能性が示され、その下流にあるプロテインキナーゼとリン酸化依存的な転写活性の変化がうつ病の病態に関与している可能性が示された。
結論
(1)抗うつ薬の連続投与後、ラット脳内で発現量が変化する遺伝子群を見出した。(2)抗うつ薬連続投与後にラット前頭皮質でcAMP依存性プロテインキナーゼ活性が亢進した。(3)拘束ストレス負荷により、ラット脳内の転写因子CREBのリン酸化が亢進し、フォルスコリン誘導体投与によりBDNF、trk BのmRNA発現量が亢進した。
(4)PC12細胞のノルアドレナリントランスポーター機能とその発現量がCa2+ / カルモジュリン依存性プロテインキナーゼ類により調節されることが示された。(5)各種ストレス負荷、リチウムによりC6細胞の細胞内カルシウム動員系が抑制された。(6)うつ病死後脳でcAMP産生系とIPs産生系のいずれもが有意に変動していた。以上より、うつ病の発症機序と治癒機転にはリン酸化を介した細胞内情報伝達系の活性変化に加え、なんらかの未知遺伝子産物も関与している可能性が示された。

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