記憶と痴呆に関する分子生物学的研究

文献情報

文献番号
199700166A
報告書区分
総括
研究課題名
記憶と痴呆に関する分子生物学的研究
課題番号
-
研究年度
平成9(1997)年度
研究代表者(所属機関)
佐藤 圭子(国立療養所南岡山病院・神経内科)
研究分担者(所属機関)
  • 森本清(香川医科大学・精神神経科)
  • 山田了士(岡山大学医学部・精神神経科)
研究区分
厚生科学研究費補助金 行政政策研究分野 厚生科学特別研究事業
研究開始年度
平成9(1997)年度
研究終了予定年度
-
研究費
2,000,000円
研究者交替、所属機関変更
-

研究報告書(概要版)

研究目的
近年の神経科学の進歩のうち、脳の可塑性(plasticity)に関する研究は最も成果の得られた領域といえる。可塑性は神経の機能あるいは構造が、様々な外的・内的要因に適応して恒常的変化を起こし、シナプス伝達の変化や神経回路の再構成を生ずるもので、脳の発達、学習・記憶、神経の再生など、脳の持つ重要な生理的機能の基盤となるものである。長期増強 long-term potentiation(以下LTPと略す)は、海馬入力を高頻度電気刺激によって過剰賦活することにより、その後のシナプス伝達が持続的に増強する現象で、その持続性、入力特異性と協力性、N-methyl-D-aspartate (NMDA) 受容体との関連性などより、学習・記憶など神経可塑性の生理学的モデルとされている。一方、実験動物脳の大脳辺縁系とその関連部位に短い電気刺激を加えると、次第に反応の増強をきたしやがて全身けいれんがみられるようになる。同時に後発射持続時間の延長、発作波形の複雑化、他脳部位への伝播もみられるようになる。反復電気刺激によるこうした反応の増強をキンドリング現象と呼ぶ。キンドリングはてんかんの病態研究に有用であるだけでなく、神経可塑性モデルの側面を併せ持つことが指摘されている。神経栄養因子は神経の成長や分化、脳損傷の防御・修復機転に関わり、種々の刺激や脳損傷の後に一過性に増加することが知られている。また、シナプシンはシナプス小胞膜を構成するタンパクで、シナプスの成熟に関り、リン酸化された状態で神経伝達物質の放出を促進するといわれる。従って、神経栄養因子やシナプシンは、神経可塑性へ大きな役割をになうと思われる。本研究では、神経可塑性のモデルであるラット海馬LTPや辺縁系キンドリングで、種々の神経栄養因子およびシナプシンのmRNAの変化をin situ hybridizationを用いて検討した。記憶や学習の基盤となる脳の可塑的変化に関与する物質について研究することで、痴呆や記憶障害の病的機序解明や予防・治療法の開発に貢献することが、本研究の目的である。
研究方法
LTP:urethane麻酔下のSprague-Dawleyラットで、右側穿通枝を刺激し、同側海馬歯状回で誘発反応を記録した。次に右側穿通枝にテタヌス刺激(400 Hz, 20 ms, 250 μsの矩形波、1秒毎に10回)を加え、刺激後誘発電位を記録した。なお、誘発電位の増強はEPSPおよびpopulation spike (PS)成分について分析した。対照群としてはtest pulseのみ90-100回加えた動物を用いた。LTP刺激の直後、15および30分後、1、2、4、8時間後に断頭し、脳を-80℃で凍結保存した。キンドリング:pentobarbital麻酔下で左側扁桃核に慢性刺激電極を挿入した。手術後回復期間の後、テタヌス刺激(100 Hz, 2 s, 1msの矩形波)を一日一回、全般化発作が5回連続して出現するまで加えた。なお、対照群としては電極挿入のみで無刺激の動物を用いた。最終発作の直後、30分後、1、2、4、8、24時間後に経時的に断頭し、脳を凍結保存した。in situ hybridization:-20℃のクリオスタットで凍結脳切片を作成した。brain-derived neurotrophic factor (BDNF)、nerve growth factor (NGF)、acidic fibroblast growth factor (aFGF)、basic FGF (bFGF)、glia cell line-derived neurotrophic factor (GDNF)、synapsin IおよびIIのmRNAにそれぞれ相補的なoligonucleotide probeを制作し、35Sでラベルした。1×106 dpm/スライスのプローブを含むhybridization bufferに37℃で一昼夜反応後wash outを行い、フィルムに5週間暴露した。photomicrographは、蒸留水と1 : 1に混ぜたKodak NTB2 emulsionにwash outした切片を5週間暴露した後、クレシルバイオレットで染色した。in situ hybridizati
onの詳細については、Satoら(Epilepsia, 37, 6-14, 1996)、Morimotoら(Brain Research, 783, 57-62, 1998)の報告に従い行った。解析と統計:mRNAレベルは、同時にフィルムに暴露したスタンダードを用いてコンピューター(Macintosh Adobe Photoshop TM3)により定量し、脳内分布や量的変化をテタヌス刺激後経時的に解析し、対照群と比較した。統計にはone-way ANOVA (analysis of variance)、下位検定にはBonnferroni/Dunn procedureを用い、p < 0.05を有意とした。
結果と考察
海馬LTPにおける神経栄養因子の経時的変化(分担研究者・森本):海馬穿通枝を刺激し、同側海馬歯状回で記録した誘発電位は、テタヌス刺激後8時間まで、EPSP、PS成分ともに持続的な増強が認められた。BDNF mRNAはLTP刺激の30分から4時間後まで刺激側海馬歯状回で著明に増加していたが、ピークは2時間後でtest pulseのみ与えた対照群の284 %であった。NGF mRNAはBDNF mRNAに比べより緩徐に変化しており、LTP刺激の1-8時間後に刺激側海馬歯状回で増加しており、ピークは4時間後で対照群の189 %であった。なお、test pulseのみを90-100回与えた動物を対照として用いたが、電極挿入手術のみ施行した動物に比べ、対照群では刺激側海馬歯状回のBDNF mRNAは231 %に、NGF mRNAは135 %に増加していた。なお、aFGF、bFGF、GDNF mRNAについては、海馬LTPにおいて刺激後8時間まで有意な変化は認められなかった。キンドリング発作後の神経栄養因子の経時的変化(分担研究者・山田):ラット扁桃核キンドリング発作の24時間後まで神経栄養因子mRNAレベルを経時的に検討し、以下のことが明らかになった。BDNF mRNAは全般化発作の1-4時間後に両側海馬歯状回で著明に増加していた。ピークは2時間後で、刺激側では対照群の493 %であった。また、刺激側CA4 でもBDNF mRNAの有意な増加がみられた。NGF mRNAは、全般化発作の1-8時間後に両側海馬歯状回の他、刺激側CA1、CA4、周嗅領皮質で有意に増加しており、海馬歯状回でのピークは発作2時間後で、刺激側では対照群の199 %であった。これらの変化は、先述のLTPにおける変化と時間経過、増加率ともに類似していた。BDNF、NGF mRNAとは異なり、aFGF、bFGF、GDNF mRNAについては、扁桃核キンドリング発作の24時間後まで、いずれの脳部位でも有意な変化は認められなかった。以上の結果は、テタヌス刺激後の神経栄養因子の変化は、発作に伴う脳局所の神経興奮性や代謝の増大というよりむしろ、LTPやキンドリングにおけるシナプス伝達効率の亢進やシナプス可塑性の増大に関連すると考えられた。LTPとキンドリングにおけるシナプシンの変化(主任研究者・佐藤):LTPについて;海馬穿通枝を刺激し、同側海馬歯状回で記録した誘発電位は、テタヌス刺激後8時間まで、EPSP、PS成分ともに持続性に増強していた。synapsin I mRNAレベルは刺激側海馬歯状回で刺激の2-8時間後に有意な増加を示し、ピークは8時間後でtest pulseのみ与えた対照群の157 %であった。test pulseのみを90-100回与えた対照群の海馬歯状回synapsin I mRNAは、電極挿入手術のみ行った動物の105 %で、両群間に有意差は認められなかった。なお、synapsin I mRNAの増加は歯状回顆粒細胞層でみられることが、photomicrographにより確認された。キンドリングについて;synapsin I mRNAは、扁桃核キンドリング完成発作の1-8時間後に刺激側海馬歯状回で有意に増加しており(対照群の144-173 %)ピークは8時間後であった。また、刺激反対側の海馬歯状回でも発作の2および8時間後にsynapsin I mRNAレベルは有意に増加していたが、他の脳部位では変化は認められなかった。一方、synapsin II mRNAレベルは発作の24時間後まで、いずれの脳部位でも変化を示さなかった。シナプシンのmRNAあるいはタンパクの増加は、その増加部位を含む神経回路が賦活されていることを示すといわれ、また、LTPではsyntaxinなど他の前シナプスタンパクが苔状線維末端で増加しているとの指摘もある。我々の結果は、海馬歯状回を含む神経回路が海馬LTPおよび扁桃核キンドリングで賦活されていることを示すと考えられ、神経伝達効率の増強や神経ネ
ットワークの拡大にシナプシンが関連することが示唆された。
結論
記憶や神経可塑性のモデルである海馬LTPで、神経栄養因子であるBDNF、NGF mRNAレベルが刺激側海馬歯状回で刺激後数時間をピークに著明に増加していた。扁桃核キンドリングモデルでも類似の変化が海馬歯状回を含む両側辺縁系で認められた。神経伝達物質の放出機構に関与するとされているsynapsin IのmRNAも、LTPおよびキンドリングで海馬歯状回において刺激8時間後をピークとして増加した。このような変化は、記憶・学習の基盤となる脳の可塑的変化に神経栄養因子やシナプシンが関与することを示すものと思われる。海馬は記憶の中枢のひとつとされ、種々の神経疾患や老化で機能障害が起こりやすい部位である。記憶は脳の生理機能のひとつであるが、アルツハイマ・病など痴呆を呈する神経疾患や老化で障害されるため、その病的機序や障害過程の解明、予防や治療法の開発が社会的に重要視されている。本研究では、神経可塑性のモデルにおける神経栄養因子やシナプシンの役割が示され、痴呆や記憶障害を呈する神経疾患や老化の機序解明や防御・修復機転あるいは治療法開発のための基礎的研究となると期待される。

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